短歌や俳句は、決まった形の中で言葉を磨く文芸です。けれどその形を借りて、形そのものを揺さぶろうとした人たちがいました。少年のころ俳句から出発し、短歌で世に出て、やがて演劇と映画へ向かった寺山修司を中心に、定型を壊し、声に出し、紙の上で踊らせた詩人たちを集めました。
作品の発表年は、雑誌への初出と単行本の刊行とで異なることがあります。ここでは主に単行本の年を記しています。
105語
寺山修司の歌と詩
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寺山修司は短歌より先に俳句で出発した。青森高校の在学中から句作に熱中し、全国の高校生に呼びかけて俳句の雑誌を作った。のちの短歌の多くは、この時期の俳句から言葉を取り出して組み直したものでもある。
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寺山修司が高校時代に仲間と始めた俳句の同人誌。全国の十代の俳人をつなぐ場になり、寺山はここで編集者としての才覚も見せた。
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十代の句は、のちに『花粉航海』(1975年)にまとめられた。晩年にはふたたび俳句に戻ろうとしていたとされ、少年時代の形式への回帰として語られる。
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寺山修司が十代のころに作った俳句を集めた句集。「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」など、のちの短歌に通じる少年の自意識が詰まっている。
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18歳の寺山修司が『短歌研究』の新人賞(五十首詠)で特選を得た連作。早稲田大学に入学した年で、若い才能の登場として注目された。
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デビュー直後、寺山修司の短歌に既存の俳句の句をほぼそのまま取り込んだものがあると指摘され、歌壇で激しい非難を受けた。寺山はのちに、引用や借用を自分の方法として積極的に語るようになる。
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「身捨つるほどの祖国はありや」と続く、寺山修司のもっともよく知られた一首。マッチの小さな火と海の霧という狭い視界から、国家というあまりに大きなものへ問いを投げる。
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寺山修司が晩年に書きためていた未発表の短歌を、歌人の田中未知らが編んで没後25年に刊行した。寺山が生涯最後に短歌へ戻ろうとしていたことを示す一冊。
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寺山修司が自ら編んだ全歌集。これをもって短歌との訣別を宣言したともいわれ、以後、寺山は演劇と映画に軸足を移していった。
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寺山修司の長編の叙事詩。恐山の風景と母の記憶、近親相姦の幻想が入り混じる。映画『田園に死す』の世界と地続きの作品。
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寺山修司の初期の詩集。のちに少女向けの叙情詩を数多く書く寺山の、甘く、どこか意地の悪い言葉の出発点。
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寺山修司は少女向けに、海や猫や手紙をうたう叙情詩を大量に書いた。アングラの演出家とは別の顔で、少女たちに読まれた。
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戦争で父を亡くした娘が、野に咲く花に語りかける反戦歌。坂本スミ子が歌い、のちにザ・フォーク・クルセダーズがカバーして広まった。
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寺山修司は演劇を始める前、ラジオドラマの作家として活躍した。音だけの世界で、現実と虚構をすり替える手法を磨いた。
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寺山修司が書いた放送劇。国際的な放送賞であるイタリア賞を受け、寺山の名を海外にも知らせた。
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池谷・関彗星の発見を題材にした放送詩劇。イタリア賞グランプリを受けた。
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子どもたちが革命を起こして大人を狩るという内容のラジオドラマ。本物のニュースのような作りだったため苦情が殺到し、問題になった。
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競馬ブームの主役ハイセイコーの引退に寄せて寺山修司が書いた詩。競走馬に自分の人生を重ねる無数の人々を並べてうたい、レコードにもなった。
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寺山修司は新聞で長く競馬のコラムを書いた。馬券の予想より、馬と騎手と賭ける人間の物語を語り、競馬を文学の題材にした。
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寺山修司は馬主でもあった。持ち馬にジョイスの小説と同じ名前を付けたことはよく知られている。
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父を戦病死で亡くしたのち、母・はつは寺山を親類に預けて九州の米軍基地で働いた。寺山は作品のなかで母を何度も殺し、何度もよみがえらせたが、実生活では生涯、母とのあいだに複雑な関係を抱えた。
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寺山修司の秘書として晩年まで仕事を支えた人物。寺山の没後、遺された原稿の整理にあたり、遺歌集『月蝕書簡』の編集にも関わった。
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寺山修司は1983年に47歳で亡くなり、八王子の霊園に葬られた。墓石は本を開いた形をしていて、命日の5月4日前後にはいまも人が訪れる。
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寺山修司は他人の詩句や名言を自在に組み換え、自分の言葉として差し出した。「引用のモザイク」とも呼ばれるこのやり方は、盗用と批判されながら、現代のサンプリングやリミックスを先取りしていたとも評される。
前衛短歌とその後
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十代で歌集『未青年』(1960年)を出し、三島由紀夫に「われわれは一人の若い定家を持つたのである」と絶賛された。少年の官能と残酷さを耽美的にうたった。
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「幻視の女王」と呼ばれた歌人。日常の風景がふとずれて異様なものに見える瞬間を、硬質な言葉で切り取った。
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古代の神話や巫女の世界を思わせる、意味の取りにくい神秘的な歌を詠んだ。前衛短歌の時代の女性歌人を代表するひとり。
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安保闘争のさなかに学生運動と恋をうたい、21歳で自ら命を絶った歌人。遺された歌集『意志表示』は、六〇年安保の青春の記録として読み継がれた。
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僧侶で歌人。短歌を絶叫して読み上げる「短歌絶叫コンサート」を長く続け、歌を紙から声へ連れ出した。
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「するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら」のように、ひらがなを多用した柔らかい口語の歌で、のちのライトヴァースの先駆けとされる。
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鹿児島の医師で歌人。死と光をめぐる透明な歌を詠んだが、生前はほとんど知られず、交通事故で亡くなった後に評価が高まった。
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「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日。口語の軽やかな短歌を集めた歌集が200万部を超える大ベストセラーになり、短歌が社会現象になった。
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記号や英語、口語を大胆に取り込んだ短歌の動き。穂村弘、加藤治郎、荻原裕幸らが中心で、「▼▼▼」のような記号だけの表現も試みられた。
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歌集『シンジケート』(1990年)でデビュー。口語の繊細な歌とエッセイで人気を得て、短歌を若い読者に開いた。
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記号や擬音を短歌に持ち込み、ニューウェーブ短歌の旗手とされた。ネット上の短歌の場づくりにも早くから関わった。
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「ニューウェーブ」という呼び名を広めた歌人のひとり。記号を並べた実験的な歌で知られる。
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誰にでも意味が伝わる「かんたん短歌」を唱えた歌人。広告のコピーのように明快な歌で、短歌を歌壇の外へ持ち出した。
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重い病で家からほとんど出られないなか、ネットの投稿から出発した歌人。透明で不思議な歌を残して26歳で亡くなり、没後に広く読まれるようになった。
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主宰者のもとに会員が集まり、毎月の雑誌に歌を載せる短歌の集団。師弟関係と選歌で歌が鍛えられる仕組みで、前衛短歌の歌人たちもこの制度の内と外で揺れた。
定型を外れた俳句
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五七五の音数や季語にとらわれない俳句。荻原井泉水の俳誌『層雲』を中心に広がり、種田山頭火や尾崎放哉を生んだ。
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家業の破産、弟の自殺を経て出家し、托鉢しながら西日本を歩いた俳人。「分け入つても分け入つても青い山」など、歩くことそのものの句を残した。
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一流保険会社の職を捨て、寺男として各地を転々とした俳人。小豆島の庵で孤独に死んだ。「咳をしても一人」の句で知られる。
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自由律俳句の提唱者で、俳誌『層雲』を主宰した。山頭火と放哉の師にあたる。
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白血病の病床で自由律俳句を作り、25歳で亡くなった俳人。「ずぶぬれて犬ころ」など、短い句に病と孤独が刻まれている。
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季語や花鳥諷詠に縛られず、都会や機械や戦争を詠もうとした昭和初期の俳句運動。水原秋桜子の『ホトトギス』離脱をきっかけに広がった。
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新興俳句の俳誌『京大俳句』の俳人たちが、治安維持法違反の疑いで次々に検挙された事件。戦争を批判的に詠んだ句が問題にされ、新興俳句運動は壊滅した。
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「戦争が廊下の奥に立つてゐた」の句で知られる新興俳句の俳人。日常のすぐ隣まで戦争が来ていることを、ぞっとする一句で示した。京大俳句事件で検挙された。
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歯科医で俳人。「水枕ガバリと寒い海がある」など、モダンで不穏な句を詠んだ。京大俳句事件で検挙された後、戦後も奔放な生活と句作を続けた。
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「蝶墜ちて大音響の結氷期」など、象徴的で硬質なイメージの句を作った。戦後の前衛俳句に大きな影響を与えた。
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一句を何行かに分けて書く「多行形式」の俳句を作った。紙の上の改行と余白まで俳句の一部として扱い、俳句総合誌『俳句研究』の編集長として前衛の書き手を育てた。
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「夢の世に葱を作りて寂しさよ」など、禅と俗が入り混じる奇妙な句を作った。阪神・淡路大震災で自宅が倒壊しても生き延び、97歳まで句作を続けた。
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言葉遊びと造語を駆使した難解な前衛俳句で知られた。澁澤龍彦や土方巽らアングラの人々と親しく、俳句をアヴァンギャルドの場に置いた。
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精神科医で俳人。「栃木にいろいろ雨のたましいもいたり」のように、意味より音とイメージが漂う、夢のような句を作った。
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「南国に死して御恩のみなみかぜ」など、戦中の言葉や軍歌の調子をずらして使う、皮肉で幻想的な句を作った。広告会社に勤めながら句作を続けた。
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季語を含まない俳句。季語は俳句の条件だとする伝統派と、なくてもよいとする新興俳句以来の側とで、長く論争が続いてきた。
現代詩の異端
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詩集『月に吠える』(1917年)で口語自由詩を完成させた詩人。竹や地面の下に生える病んだ根など、神経の震えのような不気味なイメージを描いた。
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萩原朔太郎の第一詩集。一部の詩が風俗を乱すとして削除を命じられた。「地面の底に顔があらはれ」など、病的な幻想を口語でうたった。
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萩原朔太郎の短編。方向感覚を失って迷い込んだ町が、猫の群れで埋め尽くされていく幻想を描く。
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「いちめんのなのはな」を何行も繰り返す詩「風景」で知られる。詩集『聖三稜玻璃』(1915年)は、当時の詩壇に理解されない前衛的な作品だった。
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蛙の詩を生涯書き続けた詩人。黒い丸がひとつあるだけの「冬眠」という詩は、日本の視覚詩の例としてよく引かれる。
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詩誌『VOU』を主宰した前衛詩人。言葉を記号のように並べる詩や、写真を詩として扱う「プラスティック・ポエム」を作り、海外の具体詩の詩人とも交流した。
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漢字の形そのものを使った具体詩(コンクリート・ポエトリー)を作った。「川」の字を並べて中に「州」を置くなど、文字を絵のように配置した。
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『僧侶』(1958年)などで、グロテスクで精緻なイメージの詩を書いた。筑摩書房の装丁家としても働いた。
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詩を朗読し、声と身体で書く詩人。原稿用紙に色とりどりのペンで書き込んだ「怪物君」の草稿や、映像作品も作る。
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ジャズの即興演奏とともに詩を朗読した詩人。ビート詩人たちと交流し、日本のポエトリー・リーディングの先駆けとなった。
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筑豊の炭鉱で労働者の文化運動を組織した詩人。「東京へゆくな ふるさとを創れ」の一節で知られる。
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妊娠、出産、性、身体を生々しく語る詩で1980年代の女性詩ブームを牽引した。のちに説経節を現代語に語り直す仕事もしている。
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「汚れつちまつた悲しみに」の詩人。ダダイスムから出発し、歌うような抒情詩を残して30歳で亡くなった。
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日本にダダイスムを紹介した思想家。定職を持たず尺八を吹いて放浪し、「ダダイスト」を名乗った。最後は下宿で餓死に近い状態で見つかった。
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『ダダイスト新吉の詩』(1923年)で知られる日本のダダの詩人。「皿」という語を何十行も並べる詩がある。
海の向こうの叫びと実験
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十代で『地獄の季節』などを書き、20歳前後で詩を捨ててアフリカで商人になった。「見者」として感覚の錯乱を唱え、後世の反逆者たちの偶像になった。
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詩集『悪の華』(1857年)で、腐った死体や娼婦や倦怠を美としてうたい、風俗壊乱の罪で罰金を科された。近代詩の出発点とされる。
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文字を雨や塔の形に並べた詩集『カリグラム』(1918年)を作った。「シュルレアリスム」という言葉を最初に使ったとされる。
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意味のある言葉を使わず、音の響きだけで作る詩。ダダの詩人たちが舞台で朗読し、言葉から意味を剥がしてみせた。
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1916年、チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールで、厚紙の衣装を着て「ガジ・ベリ・ビンバ」と意味のない言葉の詩を朗読した。ダダの始まりを告げる場面として知られる。
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クルト・シュヴィッタースが十年かけて作った、意味のない音だけのソナタ形式の詩。朗読すると30分以上かかる。
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ダダの中心人物。新聞記事を切り刻んで袋に入れ、取り出した順に並べるという詩の作り方を公開した。
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ジャズと放浪とドラッグの中から生まれた作家たち。朗読会で詩を叫び、のちのヒッピー文化に影響を与えた。
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長詩『吠える』(1956年)で知られるビートの詩人。この詩集はわいせつとして裁判になり、無罪判決が表現の自由の画期となった。
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詩人ローレンス・ファーリンゲッティが開いた書店で、『吠える』を出版した。ビートの拠点として今も営業している。
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文字の形や配置そのものを詩として見せる「具体詩」。スイスのオイゲン・ゴムリンガーやブラジルのノイガンドレス・グループが始め、日本の北園克衛や新国誠一とも呼応した。
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生涯ほとんど家から出ず、1800篇近い詩を書いたが、生前に発表したのはわずか数篇。死後に箪笥から大量の手稿が見つかった。
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自らの内面の苦しみを激しく詠んだ「告白詩」の詩人。30歳で亡くなり、死後に出た詩集『エアリアル』で広く知られた。
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郵便局員として働きながら、酒と競馬と女とロサンゼルスの底辺の暮らしを乱暴な言葉で書いた詩人・作家。アンダーグラウンドの小出版社から世に出た。
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架空の国の旅行記や、メスカリンを飲んで書いた記録などで知られる詩人・画家。言葉にならないものを線のドローイングでも描き続けた。
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本名イジドール・デュカス。『マルドロールの歌』を残して24歳で亡くなった謎の詩人。「解剖台の上のミシンと雨傘の偶然の出会い」の一節はシュルレアリストたちの合言葉になった。
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五行の滑稽詩リメリックを広めた画家・詩人。『ナンセンスの本』で、意味のない言葉と奇妙な挿絵を子どもたちに差し出した。
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『鏡の国のアリス』に出てくる、造語だらけのナンセンス詩。意味は分からないのに怪物退治の物語だけは伝わる、不思議な詩として翻訳者たちを悩ませてきた。
言葉遊びと声
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前から読んでも後ろから読んでも同じになる文。「たけやぶやけた」のような短いものから、何百字にもおよぶ長い回文を作る愛好家もいる。
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かな47文字を一度ずつ使って作られた今様の歌。7文字ごとに区切ったときの末尾の文字をつなぐと「とかなくてしす(咎無くて死す)」と読めるという暗号説が語られてきた。
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各句の頭に、ある言葉の一字ずつを置いて詠む技法。在原業平が「かきつばた」を詠み込んだ歌が有名。
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短歌の形で世相を皮肉り、古歌をもじって笑う歌。天明期に大田南畝(蜀山人)らが大流行させた。
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幕府の役人でありながら、四方赤良、蜀山人などの名で狂歌や戯作を書いた江戸随一の文化人。
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七七七五の音で男女の情愛をうたう俗謡。「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」のように、寄席や座敷で三味線とともに歌われた。
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五七五の形で、人情や世相を笑い、うがつ文芸。季語も切れ字もいらない。サラリーマン川柳のように、今も投稿文化として生きている。
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柄井川柳が選んだ句を集めた川柳集。160年以上かけて167編まで出た。
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性を題材にした川柳だけを集めた句集。江戸の庶民の艶笑を伝える資料として研究されてもいる。
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「かっぱかっぱらった」で知られる谷川俊太郎の詩集。意味より音の面白さで読ませる詩を、子ども向けに作った。
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詩人が聴衆の前で自作を声に出して読むこと。ビート詩人の朗読会や、日本では白石かずこ、吉増剛造らが広めた。
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詩の朗読を競技にし、観客が点数を付ける催し。シカゴのバーで始まり、世界中に広がった。
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リングに見立てた舞台で二人の朗読者が交互に詩を読み、判定で勝敗を決めるイベント。日本朗読ボクシング協会が主催した。
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一、二、五行目と三、四行目で韻を踏む五行の滑稽詩。エドワード・リアが広め、下品な内容のものも多く作られた。
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各行の最初の文字をつなげると、別の言葉が浮かび上がる詩。日本の折句にあたる。ルイス・キャロルは『鏡の国のアリス』の巻末の詩に、モデルとなった少女アリス・リデルの名を隠した。
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筋の通った意味を持たないことを楽しむ詩。エドワード・リアやルイス・キャロルに始まり、マザーグースの一部や、日本では谷川俊太郎の言葉遊びにも通じる。
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贈られた歌に、歌で答えること。恋や別れの駆け引きが歌のやりとりで行われ、機知の応酬そのものが遊びになった。
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